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Chi siamo

起源

1187

起源と歴史 

聖グイド・マリア・コンフォルティは、1895年、聖ザベリオ宣教会を創立した後、同じ霊性を持ち、宣教師である神父たちの宣教活動に協力する姉妹会を始めたいと思っていました。特に、中国にいる聖ザベリオ宣教会の宣教師たちの共同体を訪問した時、コンフォルティ司教の中でこの思いは強くなりました。しかし、この中国への旅から3年後の1931年11月5日に、聖グイドは帰天し、夢は叶いませんでした。何年も過ぎた後、一人のザベリオ宣教会の若い神父の精神と心に新しい光が差しました。それは、神の摂理によって、マリア布教修道女会を創立するために選ばれたジャコモ・スパニョーロ神父でした。

 スパニョーロ神父が書き残したものを通して、1942年の四旬節中に聖ザベリオ宣教会の姉妹会を創立することについての考察を始めたことがわかります。彼は“突然”それまで考えたこともなかったこの計画の実現に関わることを思いつきます。彼は、日記に次のように書いています。「主と対話をするたびに、あの計画が脳裏に戻ってくる… 放っておくことはできない。」そして、再び自身に尋ねます「しかし、それは本当に私がしなければならないことなのだろうか?」

その一方で、翌年1943年6月に、スパニョーロ神父はパルマにあるザベリオ会の本部の院長に任命されます。同年7月2日、彼は日記に次のように書いています。「数日前、私が創立に関わろうとしている修道女会について考えていたとき、そのような事業を始めるために、すべての面において適している人物としてボッテゴ女史が思い浮かんだ。」

当時、チェレスティーナ・ボッテゴ女史は、神学生たちに英語の授業をしていました。初めてこの創立についての話しをした時、彼女は驚いて困惑しました。個人的に新しい修道女会を始めるために自分は適していないと彼女は考え、「神の事業を興すよりも、壊す方が適していますよ」と言いつつ、否定的な返事をしました。彼女は、ただ「イエスに関わること」だけを行いたかったのです。しかし、神さまは彼女のために違うことを考えており、後にチェレスティーナ・ボッテゴ女史はジャコモ・スパニョーロ神父と共にマリア布教修道女会の創立者となるのです。

翌年、1944年の復活祭にジャコモ・スパニョーロ神父は、聖ザベリオ宣教会の本部修道院の院長としてボッテゴ先生に復活祭の御祝いのハガキを送りました。そのハガキは普通のハガキではなく、とても意味深いものでした。そこには十字架のキリストが描かれており、裏側にはただ一言「すべて」とだけ書かれていました。1944年5月24日のスパニョーロ神父の日記を読むと、女史は、最初に否定的な返事をして以降、心の内が妙に乱され、十字架のイエスの絵と「すべて」という言葉が心に深く突き刺さり、さらに心の平和を乱されたということが分かります。同じ日の日記の最後のページに、神父は、「今日、修道女会は主に『お言葉のとおりになりますように』と宣言する創立者を得た」と書いています。