主の道はかぎりない
この度、私たちは、聖ザべリオ宣教会の真命山祈りと諸宗教対話センター(熊本県)で働いている姉妹デ・ジョルジ マリアにお願いし、これまで出会ってきた「光」を求めて歩む人々の人間的・霊的な歩みの一端を分かち合ってもらいました。
真命山センターで体験した日々の生活や心の旅路は、「主の道はかぎりない」 と古いことわざにある通りでした。真命山は、諸宗教対話センターですが、祈りの家であり、また霊性センターでもあります。主な活動のうちに「祈りの家」として、キリスト教信徒以外の人々でも参加できる毎月第二木曜日の「黙想の日」があります。参加者は、熊本地区だけではなく、大分や福岡からの方々もおられます。
今年の主テーマは『祈り』です。聖書に記された人たち、アブラハム、モーゼ、ダビデ、アンナ、エステルなどの祈りが取り上げられる予定です。黙想は、10時に始まります。その日のテーマが紹介され、その後、沈黙、個人の黙想がつづきます。昼食の後、祈りがあり、黙想の最後に参加者全員で分かち合いの時間があります。
近年、いろいろな人が神のみ言葉を聞いて洗礼を受けました。たとえば、2025年、熊本市在住の新島幸吉氏や大分市在住の神田高士氏です。新島氏は、若いころからイエス・キリストの姿に魅力を感じていたのですが、具体的に信仰を得る機会がなく、真命山の黙想に誘われて参加を続ける中で受洗にいたりました。神田氏は、剣道に励んでおられますが、東京方面からしばしばグループで真命山に巡礼する方々とのご縁で、真命山の生活で心が開き受洗を希望されました。洗礼の式典の中で、剣道の作法に従い、ご自分の日本刀を洗礼盤の前に捧げられましたが、昔の武士の姿が想い起こされて感動的でした。この黙想に参加する方々の中には、洗礼を受ける望みをもち、キリスト教徒になる決心をした方々もおられ、真命山で受洗前の準備を終えた後、それぞれの小教区教会で洗礼を受けておられます。実に、人それぞれに、それぞれの道を歩いておられます!
ある若いご婦人が詩編138に心を打たれましたと話してくださいました。「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。坐るのも立つのも知り[ … ]あなたはわたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。」(新共同訳)という聖書の言葉に導かれて洗礼のご縁をいただきました、と。その方は、ご自分が所属する小教区の教会で貴重なカテキスタになっておられます。
特に感動的なできごとは、ある若い母親が、ご子息を交通事故で亡くされた時のことでした。学校から家に帰る途中、交通事故で死亡したのです。その後、母親はその悲劇「どうしてわたしの子が?」という苦しみの疑問の説明を求めて多くの寺や神社をめぐりあるきました。輪廻の思想も聞きましたが納得できませんでした。その母親は、ただ自分の男の子を見つけたかったのです。あるとき、知人が真命山を尋ねるようにすすめました。そして真命山で、復活のメッセージを聞きました。キリストは、ご自分に委ねられた人々のために死に、復活して死に打ち勝ち、永遠の命を人間に与えられた、と。その話に惹かれて、少しずつ希望の道を歩み、洗礼に導かれました。わたくしは、その母親の心の旅の道ずれになり、洗礼の準備をし、代母になれたことをうれしく思います。今は、心おだやかに生きておられ、ご自分のご子息と会える日を楽しみにしておられます。
そのほかの歴史的なことが、真命山の歩みを豊かにしています。「主の道はかぎりなく…」、主のあわれみ・慈愛は わたしたちを優しく抱きしめながら、主は主だけがご存知の小道を導いてくださいます。




